年号 | 西暦 | 年齢 | 主 な 出 来 事 |
天保3年 | 1832 | 1 | 7月3日、片口村の庄屋 松尾与右衛門正久の長男として生まれる。名前は「与右衛門正信」。明治に入ってから、名は3文字にせよとの命令で、松尾家の十代目という意味から「与十郎」と名乗ることにした。 |
天保8年 | 1838 | 7 | この年、父与右衛門正久が仏壇を購入した。先祖たちへの供養とともに、我が子ながら年齢を越えた利発さに大層期待をかけ、山王村渡辺鉄崖塾へ学ばせるはなむけにもと購入したという。 |
不詳 | ? | ? | 慶応3年から明治初年にかけて南浦原郡一帯の各村名主達とともに平田学舎へ入門した。 |
嘉永3年 | 1850 | 19 | 向学多感な松尾は京師に学び、あわせて勤王の志士達とも広く交友し知見を広め、さらには遠く吉田松陰の門を叩かれたとも推察される。英語やオランダ語の修得にも深い関心を示し、当時としては地方では珍しく外国語を話されたと伝えらる。同学の士とも常に情報交換をされた。 |
安政3年 | 1856 | 25 | 尊皇倒幕、外夷撃攘、開国是か非か、国論沸騰、渦巻く江戸へ出張した。自らの目と肌で中央政局の現況に触れ、自らの進むべき方途が見えて来る。さらに交友の範囲が広がる。 |
文久2年 | 1862 | 31 | 12月15日、父与右衛門正久が亡くなる。父の跡を継ぎ、村の庄屋となる。 |
元治元年 | 1864 | 33 | 状況を総合的に判断すれば、近づく日本の姿が脳裡に去来し、「万事の成否は人にあり」との結論に達した。そこで私費で塾を開き近郷の有志青少年を教育し始める。この門下より後年直江排水路(国道八号線沿い)を完成し、大河津分水工事の実現にも努力した三ッ屋の外山静一郎、福島新田の田中廬等の人材が輩出した。 |
明治元年 | 1868 | 37 | 6月14日村山半牧は、見附で自決する。半牧は、三条出身の画家であり勤王論者でもあった。戊辰戦争のさなか、幕府軍に捕らえられまいとして、松尾を頼って片口を訪れている。松尾は、自分の家ではかくまいきれないと判断し、見附の近藤家へ退避させることにした。この時、妙法寺住職を先導として、中へ村山半牧、後尾に松尾がついて、山沿いの道を通ったそうである。 |
明治4年 | 1871 | 40 | 清水金三郎が土木官として新潟県に勤めることになる。清水は、かつて桑名藩の役人であり、片口(幕府領)が桑名藩の預かり地であったため、庄屋であった松尾とは親交があった。戊辰戦争の際は、松尾を頼って片口を訪れ、同家にかくまってもらった経緯がある。清水は、松尾が郷土のための様々な事業を進める上で、大きな存在となる。松尾は、清水宅を訪ね、堤防を作ることを相談する。清水は、松尾を大参事の南部信近に紹介する。 |
明治5年 | 1872 | 41 | 明治5年<に土木官清水金三郎氏の強力な庁内運動が効を奏し、県令平松時厚、大参事の南部信近らが訪れ、四日町郷の惨状を巡視した。案内役をしたのは、東本成寺の小区長中沢鶴居(たづい)と松尾与十郎である。二人は予め細部にわたって打ち合わせをし、つぶさに実状を具申し、堤防を築いて災害を防止して欲しいとお願いした。県令もほぼ納得されたが、間もなく転任となってしまい、工事の件は中断してしまう。 8月1日、信濃川が大洪水となる(八朔の洪水という)。五十嵐川、田川、大面川も水があふれ、四日町郷はおよそ1カ月間にわたって水が引かず、一面の稲が水腐れとなり臭気が漂い、収穫は全くない状態であった。さらに中村(西中)から下新田、福島新田までは、一面青い物は何も見えない状況であった。松尾はこの惨状を眼のあたりにして、あれこれ思案を重ね幾晩も眠れぬ夜が続いた。住民を救うには提防を築くこと以外にないと悲願を固め、終生の大事業に踏み切ることになった。当時の四日町郷とは、片口、月岡、諏訪新田、上下曲渕、新保、四日町、東本成寺、西本成寺、中村(西中)、五明、下片口の12ケ部落で戸数570戸、耕地面積452町歩であった。 |
明治7年 | 1874 | 43 | 6月暴風雨に見舞われて、田畑の作物は全滅の惨状にあった。松尾は「機は今だ」と考え、中沢鶴居に「地域一致して当たらねばうまくいかない。四日町郷村々の意見がまとまるよう協力してほしい。」と頼んだ。このことにより、四日町郷の各村のほか、東鱈田村と西鱈田村をも加えた13カ村の地域運動として取り組むことなり、7月には前記各村連名で県知事に建言書を提出することができた。 しかし、対岸三条郷の強硬な反対運動があり、松尾はしばしば県庁へと出向き、願いが聞き届けられるように働きかけた。そのかいあって、「新堤の築造は許可にならぬが、旧堤を修繕ならば許可しよう。」との返事があったので、修理名義で再請願した。このころ台湾出兵があり、勅令により新規工事は見合わすことになり、またまた許可が延期されてしまう。 松尾は延期は不利と考え、もともとの堤防を郷費で補修するということでさらに請願してはどうか、と郷民に持ちかけた。これまで公費でと思っていたのに、自分たちが出費することへの不満や松尾への疑いなどがあり、思うように運動を進めることができなかった。そこで、中沢佐平治(月岡)、田中久衛(月岡)、丸山善八(諏訪)、高橋半造(四日町)、野崎市太郎(四日町)、佐藤清吉(四日町)、金子六郎(新保)らが松尾の真意を郷民に伝え、郷費での補修という意見にまとめ、願書を提出することができた。 この年、私塾の設備をさらに改善増築し、「片口校」として子弟育成に力を注いだ。 |
明治8年 | 1875 | 44 | 4月に県令楠本正隆は諸課長ら20名を引率し、別仕立ての汽船で視察に来た。これを見て三条側の人々はまたまた反対運動を始めた。庁内にも三条側の意見に賛同する者がおり、庁内の意見もうまくまとまらなかった。 5月、松尾は県庁に出向き、反対派の県官を個別に訪問し、話し合いをしたが事態は好転せず、絶望し、白山浦辺りで信濃川へ投身自殺を図ったといわれる。ここで楠本知事は反対者を県庁に招いて、松尾の願いとこれまでの努力を説明し、協力するよう諭された。このために三条側の人々は納得し、10月2日、築堤にかかる費用は郷費で負担することを明示して工事の指令が下された。四日町郷では、さっそく組合組織を作り、各係や工事の進め方などを議決して、11月11日に起工式を行った。 これまでに松尾は運動費や県官等の根回しや接待費など、合わせて数万両を使ったという。松尾は頻繁にイタリア軒を利用した。それは、新潟出張がひんぱんであったこと、外国語を話せたことや、県庁に近く宿泊に便利で連絡と情報が早期に入手できること等の理由であったと思われる。イタリア軒は、松尾がつくったのだという噂が生じた程だったという。物を生産することの苦労を知らず、ただ反対意見を支持する役人や、ともすれば三条側に同意しかねない新政府任官のハイカラ意識の強い役人たちに、西洋料理をともにしながら願いが聞き届けられるように努めた。 |
明治9年 | 1876 | 45 | 工事には郷民の婦人や子供までもが人夫として進んで参加した。そうした努力のかいあって、工事はどんどん進行した。しかし、村々の負担分の納入が遅れ、人夫賃の支払いは滞りがちであった。これに非難が起こり、結束の乱れが心配された。 そこで、5月に松尾与十郎、小区長中沢鶴居より県令に対して、賃金を支払い堤防工事が成功するよう、関係する村々を呼び出すよう願い出た。県は第十号出張所へ願書を回して、村々の代表を呼び出し、指導した。これ以後、負担分が滞るということもなく、工事は順調に進み、9月には囲堤同様の堤防完成した。 また、この工事と並行して、月岡村より排水路を作る工事を進められた。巾3間、長さ18町の排水路工事である。これは、現在の新通川の一部である。(第1期工事) しかし、これはまだ松尾が満足できる堤防ではなかった。幅が7〜8尺しかなく、高さは対岸よりも3尺も低かったからである。このままの状態で、大水となればこれまでの苦労が水泡となることを心配して、すかさず県令永山盛輝に対して「堤腹付置願」を10カ村連名で提出するのである。 しかし、このころ反対運動が三条側より起き、ますます盛んとなった。これに対して、三竹から篭場までの堤防工事は、新規の築堤であり、(これに対しての左岸増築工事でもあるから)反対の理由とはならない、と反論した。 話し合いの末、左岸も右岸もお互い様なので反対運動はしない、今後のことは松尾に任せて、県との交渉をうまく進めてもらう、という取り決めをすることができた。 このころも松尾は、新潟に滞在し、県庁へ官費で工事してもらえるよう請願をし、指令を待っていた。しかし、指令は下ったものの、またまた郷費負担での許可であった。 |
明治10年 | 1877 | 46 | 松尾は、地元の人々には「公費で行うよう働きかけるので」と約束して、願いに同意してもらった。これ以上の工事への負担は申し訳ないという気持ちから、涙を浮かべながら命がけで繰り返し請願を繰り返した。 2月16日経費のほとんどが公費でまかなわれる、という破格の指令が下った。松尾の熱い請願が功を奏したのである。 人々は喜び、一致協力して工事に参加し、10月には月岡の水戸(すいど)より、西本成寺旧堤に達する延長2里余、馬踏(上の幅)2間、敷(下の幅)4間半の堤防が完成した。(第2期工事) さらに西本成寺の旧堤西南の角から、下新田に至る堤防もつくった。これまでに要した費用は数千円に達し、内3,544円72銭8厘は県よりいただき、その他は組合で負担した。およそ1,155円である。 |
明治11年 | 1878 | 47 | 5月より明治天皇北陸御巡幸についての動きがあった。由利の国道から今町を過ぎ長岡へ向かう案が当初は有力であったが、松尾は苦心の末にようやくできた堤防の上を御通りいただくよう強く望み、田巻定市(四日町)に頼んで四日町西北隅より四日町、新保、曲渕、諏訪新田、月岡、如法寺、吉田、長嶺までの道を通る計画書を県庁へ提出した。当初の案を指示する人々から反対も強かったが、松尾や清水金三郎らの尽力によって、堤防上が御道筋と決定した。 このことにより、県より道路修理費として2,000円をいただき、これをもとにして、高さを3尺高くし、馬踏も2間半と広げた堤防ができた。これまでの運びに感激した松尾は、私費を投じて、御休息所用地を確保し、土囲壇や建物を新築した。 9月22日、松尾は如法寺村の御休息所で白衣一装で鳳駕を待ち受けた。それは、さらに丈夫な堤防を完成するために国庫補助の願書を差し出し、もし却下されれば腹を切る覚悟であったからである。幸い、側近の御手許に提出した願書はお取り上げとなった。 この日を天皇陛下への恩を忘れない、そして松尾への感謝をこめて祭日と定め、四日町村・新保村・曲淵村・如法寺村も祭日としていた。この御巡幸に際して、片口校在校生2名が奉祝文を読み上げ、その写しが現存している。 |
明治12年 | 1879 | 48 | 宮内庁から呼び出しがあった。つぶさに堤防についての事情を申し上げた結果、内務省より国費が支出され、堤防は道路をも兼ねる事となり、左岸堤防すべて幅員は2間半に増され、壌土3尺の上装をして完成した。 |
明治13年 | 1880 | 49 | 学校は如法寺村の大桃友太等と相談し、海蔵院に移し就学生徒数も増えますます発展した。 現在の諏訪利三郎氏方の土蔵は、この廃校になった古材を使って建造したと言われている。 松尾の家産はだんだん傾いて来たが、公共のためにつくす志は益々燃えた。郷土の交通の発展と土地の繁栄を願い、松栄橋(現在の常盤橋)を自費で架設し、橋際から四日町大辻に至る道路300間を部落民を説いてつくり、さらに私費で四日町より五明に至る、約1,000間の土地を購入して道路にした。今の県道三条見附線がそれである。この大事業のためにに自家の地価4,000余円(約10町歩)を全部投入してなおかつ足りなかった。苦労は想像に余るものがある。 |
明治19年 | 1886 | 55 | 3月15日病気のため亡くなる。行年55才。栄町矢田村曹洞宗光照寺に葬られ、法名は「栄松院正山良信居士」。 この法名については、本名の「与右衛門正信」を光照寺住職は重視して松尾は栄え、正しい事は良い事だと多勢の人達に信ぜられて、後世ますますその徳を山の如く高く仰がれる、とおくられたと考えられる。 死期を悟ると親友の新保村大桃大五郎を枕元に招き、「五十嵐川の堤防は完成して、水害のおそれは無くなったが、吉野屋山中に源を発し、月岡へ出て四日町郷を流れる田川は、往々にして大きな水害をもたらす。これを防ぐには月岡の山腹に隧道を設け五十嵐川へ直接放流するほかにない。どうかこの自分の意志をついでくれ、頼む。」と言い残した。亡くなる3日前であった。 |
年号 | 西暦 | 没後 | 亡くなってからの主な出来事 |
明治22年 | 1889 | 3 | 5月22日五十嵐川堤防組合は、御蔵橋たもとに追頌の「新堤碑」を建立した。 |
明治26年 | 1893 | 7 | 前の組合を廃し堤防の営繕管理を事業目的として、四日町水害予防組合が発足した。 |
明治30年 | 1897 | 11 | 遺族は東京へ移住される。先生の死後、妻女「むろ」さんは生活の為に大層苦労された。 |
明治31年 | 1898 | 12 | 北越鉄道(今の信越線)敷設に際し、金子録三郎(新保)、大桃大五郎(新保)、高橋平造(四日町)、山倉定七(月岡)、小林林蔵(四日町)、佐藤善米(四日町)、角田与五平(諏訪)等が中心になって鉄道会社より1,500円、四日町郷より1,000円を拠出して、月岡山腹に300間の隧道を掘り、田川の水を五十嵐川へ放流し、四日町郷への氾濫を防ぎ先生の遺志を実現させた。明治34年5月竣工。 |
明治37年〜41年 | 1904〜1908 | 18〜22 | 四日町水害予防組合では、この5年間毎年100円を祭粢料として遣族に贈った。 また先生の肖像画を四日町郷の各学校に掲げ、子弟訓育に役立たせるようにした。画工は藤沢越堂で、松尾先生が撮られた写真をもとにかかれた 。 肖像画は、四日町校・月岡校・吉田校・西鱈田校・本成寺役場へ掲げたが、終戦直後に進駐軍に遠慮して各校とも処分をした。昭和60年に行った先生100年忌の際に祭壇中央に飾った写真は、役場にあったものである。 |
大正13年 | 1924 | 38 | 摂政宮殿下(昭和天皇)御成婚の事あり、紀元節に際し従五位を追贈される。郷民は喜び記念碑を建立することを企画し、6月23日片口村の白山社境内に完成し、除幕報告の盛大な式をあげた。 |
大正14年 | 1925 | 39 | 10月、四日町水害予防組合では、松尾先生の墓碑を、菩提寺の裏山に新築し、併せて追善供養を営んだ。 |
大正15年 | 1926 | 40 | 7月28日諏訪新田地先と曲淵村上手の2個所破堤し、四日町郷は大水害をこうむる。日魯漁業株式会社の堤清六氏より北洋産塩鱒等の水害見舞が被害を受けた全戸へ届けられた。 |
昭和8年 | 1933 | 47 | 1月22日、五十嵐川改修工事着手、昭和12年10月29日完成。4年10ケ月を要した。 |
昭和32年 | 1957 | 71 | 7月、大降雨に際し、太平洋戦争当時船用材として伐木した杉の古根株が流れて来て、田川制水閘門に挟まり機能を妨げ、また隧道の中間点陥没等のため、田川濁水がずべて四日町郷へ溜まり、床下床上浸水数知れずの大披害を生じた。 将来に備えて間の川、新通川、島田川へ最新強力排水機を設置の資金を国県の補助を仰ぎながら、大部分を借入金等にて支弁するため、新組織が真剣に考えられた。この頃、夏季降雨の都度袋詰め塵芥が間の川ごみ止め柵に遂年大量に集まり、為に水流を妨げ往々南北新保地区に床下床上浸水をもたらすことから、自営活動団体として新保水防協会が組織され、非常の際は随分と公私の為に働きながら今日に及んでいる。 |
昭和34年 | 1959 | 73 | 11月23日、四日町水害予防組合が解散。新しく三条南部土地改良区が組織発足す。記念事業として松栄橋(今の常磐橋)南詰上手に、彫師半藤政衛氏制作になる松尾先生の上半身銅像を建立し除幕式を行った。これは、その後昭和50年に四日町の日吉神社境内へ移されている。 |
昭和50年 | 1975 | 89 | 5月、三南土地改良区では、借入金の返済も完了したので解散をした。その記念事業として四日町小学校を会場とし、五十嵐左岸築堤百周年記念式挙行された。(作家 石田幸三氏の記念講演) |
昭和52年 | 1977 | 91 | 4月より国営刈谷田川右岸大排水工事開始附帯工事として田川随道も幅員、高さを従来の倍に拡げ、従前地よりやや上流に新規掘鑿し機能を大きくした。 |
昭和55年 | 1980 | 94 | 3月竣工、これより古根株の引っ掛りもなくなり四日町郷の水害は昔ばなしとなった。満3年を要した。 |
昭和60年 | 1985 | 99 | 9月22日、本成寺地区自治会長協議会主催、本成寺公民館及び左岸沿い曲渕村より西の四ケ部落協賛で、松尾先生百年忌供養祭を嵐南公民館で挙行した。 8月18日より31日まで、三条図書館にて松尾先生関連の遺品、資料等の展示会催され、後に「市政だより」にコーナーを設け、先生の事歴を85,000市民に広く紹介された。 |
【参考資料】 本成寺公民館/「松尾与十郎先生略年譜」 百年忌供養祭記念出版 昭和60年9月 三条市史 /「四日町組合堤防史」 佐藤善米(ぜんまい)著 新潟県史 /「勤王者調書類」 西鱈田小学校百年誌 昭和57年 西鱈田小学校百周年記念事業実行委員会 ※なお、記述を簡略にするために、松尾与十郎先生を「松尾」と、敬体を常体で表記した。 「先生略年譜」をもとにしながら、複数の資料を整理してみた。 史料をもとにご指導いただければ幸いである。