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  道路を開く




   ■現在の四日町商店街


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常磐橋より南側を撮影 平成11年11月



 松尾氏ハ明治十四年ニ三条町松屋小路地先ヨリ四日町ニ自費ヲ以テ五十嵐川ニ架橋シ、四日町ヨリ五明村迄ノ 間同シク自費ヲ以テ土地ヲ買収シ道路ヲ開ケリ。
[出典三条市史「四日町組合堤防史」佐藤善米]





   ■五明までの道路


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新通川より五明方向 平成12年1月



 明治14年 家産は漸く傾いて来たが、公共につくすの志は益々燃え、郷土の交通の発展と土地の繁栄を願い、 松栄橋(今の常盤橋)を自費架設、橋際から四日町大辻に至る道路300間を部落民を説いて造り、さらに私費で 四日町より五明に至る、約1000間の土地を購入して道路にした。今の県道三条見附線がそれである。
 此の大事業完結に自家の地価4000円(約十町歩)を全部投入してなお且つ足りなかった。苦労想像に余るものあり。
[出典/百年忌供養祭記念出版 松尾与十郎先生略年譜]




   ■明治37年の地図

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「三条町全図及付近」明治37年1月 三条商業日報社より作成

hanrei.jpg  明治末期の貴重な地図である。南北が逆であるが、当時の四日町は今日のような市街地が密集する地域ではなかった。
 周囲を田圃や畑に囲まれ、荒れ地(萱場)も点在するような農村地域であったようだ。この地図で注目するのは、松尾がつくった道路の幅である。地図の上の方(南)になるが、細い線になるのがお分かりいただけると思う。
 「四日町商店街も今日の通りではなく、外山整形外科の脇の小路であった。」(諏訪利三郎氏)というお話とつなげて考えると、この道路の幅がうなずける。松尾が私費を投じてもまっすぐで南に向かった道路にこだわり、それが今日の県道になっていることを考えると、まさしく先見の明があったと言わざるを得ない。
 なお、今日のような県道に完成するまでに、金子新田の外山精一郎氏の活躍があった。この方は、松尾の私塾で学ばれた門下の一人である。





   ■当時の道幅


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外山整形外科脇の小路 平成12年1月

 外山整形外科東側から南へ向けてのび、三条駅から本成寺本山へ通じる道に出て、四日町公園の西側を通り、さらに西側を南へ向けて進み、月岡から西本成寺、また四日町木戸新平材木店脇への排水路を渡って、西中・本成寺等へ通じていたのが、以前の通路であった。(大箭耕七氏談)





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