
新通(しんどおり)川を掘削する
■平成3年1月1日 三条新聞特集記事より
西側より月岡小学校を見る 平成12年1月撮影
新通川という名前からして新しく通した川であると考えるのがふつうだろうが、享保9年(1724)5月とある四日町村絵図にはすでに新通川の川筋は描かれているものの、川の名までは書き込まれていない。その左岸に沿って南北に延びる道には「新通道」とある。
それから80年近くたった享和元年(1801)9月の同様の絵図にははっきりと、「新通川」とあることから新通道の名が先にあり、そのわきを流れる川ということで、あとで新通川と名付けられたと考えるのが妥当だろう。
新通川が自然にできたのか、それとも人為的に造られたのかは今となっては知る由もないが、絵図が描かれた年代が確かとすれば、少なくとも江戸中期の267年以上も昔から存在し、江戸末期の200年前には新通川と呼ばれていたことになる。
それではなぜ川筋が変わつたのかということになる。仕掛け人は四日町地区を含む五十嵐川の南側、嵐南地区一帯を度重なる五十嵐川の洪水から守ろつと私財をなげうって堤防を築いた明冶の偉人、松尾与十郎だ。
■平成3年1月1日 三条新聞特集記事より
東側より四日町方面を見る 平成12年1月撮影
(松尾は)明治8年から9年に行われた築堤工事に新通川の改修を盛り込んだ。当時の皇室に尽くした事業をまとめた「勤王者調書」には「与(興)十郎ハ更ニ大字月岡ヨリ大字四日町新通川ニ至ル間約千間(1.8キロ)ニ幅三間(5.4メートル)ノ江筋ヲ掘削(くっさく)スルノ計画ヲ樹テ…」とある。
享和元年の絵図には新通川の途中に二本の川が流れ込んでいる。いずれも片口方面から流れてきているが、今の地図と照らし合わせてみると、上流側で接続している川を月岡地内まで真っすぐ貫くように改修したと思われる。
ではなせ、松尾与十郎は新通川の改修も計画したのか。それも前段にある。「当初ノ設計ハ専パラ外部ヨリノ浸水ヲ防グニ在リテ内部ノ排水灌漑(かんがい)二就イテハ何等ノ計画ナク、未ダ治水策トシテ十分ナラズ、…」。
嵐南地区の発展には洪水を防ぐだけでは足りず、五十嵐川への排水や農業用水の整傭も必要と考えたわけだ。その効果は「其区域四百六十町八反歩ハ悪水排除・用水引入ノ為メ莫大(ばくだい)ノ利益ヲ得ツツアリ。」と絶大だった。
■平成3年1月1日 三条新聞特集記事より
嵐北より河口を見る 平成14年7月10日台風6号接近時撮影
築堤にかかった費用は1万円とちよっと。うち「直江費」として盛られた新通川の改修費は900円。築堤と併せて新通川の改修を思いついた松尾の才覚、それを実行した行動力はだれも否定できないだろう。
江戸時代の四日町村には十軒足らずの家しかなかった。古文書を調べると、多かれ少なかれ、毎年のように洪水に見舞われていた。収穫期に稲穂が見えなくなるぽど浸水し、コメが一粒も取れずに年貢を勘弁してもら陳情を行うことも再三あり、やせた土地だった。
それが今はどうだろうか。松尾与十郎が願った豊かな水田地帯と方向は違うが、迷路のように細い道が入り組んだ住宅密集地となっている。新通川の過去をたどることは松尾与十郎の功績の大きさ再確認することとなった。
