
左岸の堤防
■現在の堤防
田島橋付近より東 平成12年1月
松尾が心血注いで実現した五十嵐川左岸の堤防である。その後数回の改修工事を経て、このような整然とした姿を見せている。ここでは、堤防ができた当時の様子に迫ってみたい。
■昔の新保堤
写真集 三条 野島出版より掲載
本の中に、古い1枚の写真を見つけた。新保堤という題で、年代は不詳である。おそらく昭和初めのものではないか、とのことであった。
貴重な昔の堤防の写真なので、この場所を探し、現在と比較することにした。手がかりは、右へ曲がるような堤防、そして小屋と向こうに見える山の稜線である。
昭和初期まで堤防は部落際にあった。昭和の初め、救農土木工事により、現在のように北側に移された。
■今の新保堤
田島橋近くから曲渕・新保方面へ 平成12年1月
写真の場所を発見した。ポンプ小屋と吉田や長嶺の山の稜線が決め手である。
それにしても住宅が建ち並び、なんという変わり様であろうか。松尾が関わったのは、おそらく右手の堤防である。かつてはポンプ小屋とほとんど同じ高さであったのに、現在では、かなり急な下り坂となっている。松尾の堤防は道となり、切り崩されていることが分かる。
この辺りは「曲渕」という地名からも分かるように、堤防が川に沿って曲がりくねっていたらしい。この辺りは、現在でも堤防のあった所が今日でも確認できる。
昭和初期の救農土木工事として、旧堤を取り崩し、北側に現在の堤防が築かれた。
■堤防のあったところ
曲渕一丁目6辺り 平成11年10月
周囲の住宅が道路よりも一段低くなっており、堤防があったことがはっきりと分かる。手前は、かつて堤防の外側であり、ススキやカヤが生い茂る野原であった。
道路の向こう側が旧部落である。
月岡村水戸 月ヶ岡養護学校辺り 平成11年10月
月岡村水戸ヨリ起リ諏訪・曲渕・新保・四日町ヲ経テ本成寺村旧堤ニ達シ、延長弐里余、此間五カ所に樋管ヲ設ケ、排水ニ備フ。
[出典/三条市史 「四日町組合堤防史」佐藤善米著]
御蔵橋のたもとの記念碑 平成11年11月
堤防ハ元今井村堤ヘ接続スル見込ミナリシモ三条、須頃ノ故障アリ、止ヲ得ズ退テ本成寺村囲堤西北角ヨリ今井野新田ノ堤ヘ接続セントシタル処、(後略)
[出典/三条市史 「四日町組合堤防史」佐藤善米著]
はじめは、信濃川との合流地点まで堤防をつくる予定であった。しかし、三条町や対岸の須頃から反対運動などがあり、御蔵橋たもとまでとなった。ここからは、以前からあった本成寺の囲い堤に接続するため堤防は南に向かう。現在は道路となっており、写真の右端に見える。
かつてはここに、新堤碑が建っていた。しかし、ここは御蔵橋を含めて五叉路で、自動車の交通が増えたことから、交通安全を考えて、日吉神社境内に移された。
なお、この記念碑には「松尾余十郎翁 嵐南築堤記念碑 三条市長 内山裕一書」と書いてある。
荒木氏の研究によれば、四日町組合堤防史では「馬踏み(堤防上部の人馬の歩ける所)2間(約3.6メートル)、敷(堤防の上台部分)4間半(約7.3メートル)」となる。しかし、これだと斜面が急すぎて、堤防の用をなさないことが専門家の指摘で明らかになったそうである。
次に、四日町の日吉神社の新堤碑であるが「月岡自リ西行左折シ本成寺ニ接シ延袤二里余、堤ノ高サ十二尺、基厚七十尺、其上ヲ殺ギ厚サ七分二ヲ得、通溝一所、穿渠五所、用工八万七千人、二裘葛ヲ経テ丁丑十月ニ至リ竣功ス。」とある。これによれば、堤の高さが3.6メートル、その厚さ21.2メートルとなる。これは現在の諏訪新田辺りの堤防とほぼ同じ規模だそうである。したがって、堤防史は何らかの記述間違いがあったのではないか、新堤碑の方が正しいのではないかと指摘する。