
右岸の堤防
■右岸の築堤にも関わる
道心坂より右岸中新方向を望む 平成12年1月
松尾は同時に嵐北のために、三竹より篭場に至る築堤の許可を得せしめて三条郷一帯の融和を図った。
[出典/「五十嵐川築堤の由来」松尾与十郎先生顕彰会 図書館 渡辺行一著]
■松尾は南部地域と北部地域の調整役として活躍
篭場の堤防 集落側 平成12年1月
明治十年春、上置服付増築工事ヲ請願シタルニ、此の増築工事ニ対シ数年結テ解ケサリシ北部村々ヨリノ故障
ハ、楠本県令殿ノ説諭ニ依リ一時融和ニ帰スルトイエドモ此ニ於テ爆発シ、弥盛トナル。
然ルニ三竹ヨリ篭場ニ至ル堤防ハ新規築堤ニ付、之ヲ以テ南部ヨリ故障ノ理由トシテ掛合タル処北部モ仕方
ナキニ依リ熟議ヲ遂ゲ、南北新増築ニモ故障セサル事ト為シ、双方松尾氏ニ依頼シテ御指令ヲ受クルコトトセリ。
[出典/三条市史 「四日町組合水防史」佐藤善米著]
明治9年9月、一応の完成を見た(1次工事)左岸の堤防であるが、まだまだ松尾の満足のいくものではなかった。
もう少し高く(まだ右岸より三尺低かった)、幅も広げたい、という願いを出したところ(新潟県史/勤王者調書類には
明治9年9月の文書が記載されている)、再び五十嵐川の北部の村々から反対の声があがった。
これに対して、五十嵐川の南部地域は、三竹から篭場までの新規に堤防が作られると低い堤防しかない五十嵐川南部地域
は困ると反論した。
北部の人々は相談の結果、お互い様なので、松尾に県との交渉を一任して、お互いの工事許可が得られることにしよう、
ということになった。
松尾の大きな功績として、渡辺行一氏も述べておられるが、「三条郷一帯の融和を図った」ということがあげられる。
(解釈/八巻)
■右岸堤防の南端
篭場取水口あたり 平成12年1月
赤く見えるのは、五十嵐川から飲料水や農業用水を取り入れる口である。
篭江用水組合は、三堰統合規約(上江水利組合堰、下江水利組合堰、篭江水利組合堰)締結によりできたものである。以前は、月ヶ岡養護学校下の五十嵐川より取水していたが、三堰統合後は、写真の篭場施設より入ってきた水を三条上水道沈殿池西側より分水して、五十嵐川の川底にコンクリート菅を埋め、それで通水し旧来の篭江川へ取水している。