枝八小路
小路の奥の土手に面して米や薪炭を商った丸山家があり、その屋号が枝八だったことから小路の名前になりました。昔は五十嵐川の土手の通りが本道であっため栄や中之島からの米の仕入れや、下田から五十嵐川を下って運ばれてくる薪炭などの荷揚げは川岸に作られた川途から行っていたといいます。この小路は大正7年から8年頃に荷物運搬のために道路をつくり、大正9年に町道として認可されました。小路の中ほどに江筋がありましたが、今は埋め立てられていて堀の面影はありません。
- この記事に関するお問合せ
小路の奥の土手に面して米や薪炭を商った丸山家があり、その屋号が枝八だったことから小路の名前になりました。昔は五十嵐川の土手の通りが本道であっため栄や中之島からの米の仕入れや、下田から五十嵐川を下って運ばれてくる薪炭などの荷揚げは川岸に作られた川途から行っていたといいます。この小路は大正7年から8年頃に荷物運搬のために道路をつくり、大正9年に町道として認可されました。小路の中ほどに江筋がありましたが、今は埋め立てられていて堀の面影はありません。
更新日:2019年02月20日