三条市指定有形文化財「京野原遺跡出土石棒」
京野原遺跡出土石棒は、完形の両頭形(りょうとうがた)で、文様がなく両頭が異なる形態で、縄文時代後期前葉から晩期中葉のものと考えられます。 また、安政3(1856)年にこの石棒が出土した時の様子を記す文書2通が残されていて、考古学的な発掘資料ではありませんが出土状況を知ることができ、市内で文字に表された最も古い遺物としても特筆されます。
三条市指定有形文化財「京野原遺跡出土石棒」の概要
1 名称
京野原遺跡出土石棒(きょうのはらいせきしゅつどせきぼう)附(つけたり)文書2通
2 員数
1点
3 指定年月日
平成25年5月28日
4 所在の場所
三条市荒沢
5 所有者
個人
6 種類
考古資料
7 品質及び形状
石棒、黒色粘板岩製、完形両頭形
8 寸法又は重量
長さ58.0cm、幅3.8cm、厚さ3.3cm、重さ1.14kg
9 製作の年代又は時代
縄文時代
10 伝来
文書に「安政三年夏、庚申の日、居屋鋪の内、子丑の間に柿の木在り、鍬先に異音有りて堀ること深からずして即ち之を出す」と記されています。
11 その他参考となるべき事項
安政3(1856)年にこの石棒が出土した時の様子を記す文書2通があります。
12 説明
京野原遺跡は、三条市荒沢(あらさわ)字下平( しもだいら)に所在する縄文時代後期・晩期の遺跡です。この遺跡から出土した石棒が、安政3(1856)年に出土したことを記した文書とともに桐箱に納められ、地元の個人宅に代々伝えられています。
京野原遺跡出土石棒は、完形の両頭(りょうとう)で、長さ58.0cm、幅3.8cm、厚さ3.3cm、重さ1.14kgあり、石材は、緻密(ちみつ)で劈開(へきかい)が発達した黒色の粘板岩(ねんばんがん)です。頭部の一方は頭頂部が平らな笠形で隆帯(りゅうたい)が伴い、他方は亀頭形となっています。全体形態や頭部形態の特徴から成興野型石棒(なりこうやがたせきぼう)と考えられます。成興野型は、頭部や隆帯に沈線 文(ちんせんもん)が施されるものが多く、両頭部が同じ形態のものが多いが、京野原遺跡出土石棒は、文様がなく両頭が異なる形態となっていて、類例が少ないことが特筆される。
この石棒の帰属時期は、京野原遺跡から出土した縄文土器から縄文時代後期前葉から晩期中葉と考えられます。
石棒胴部中央には被熱により変色した灰色の部分があります。また、胴部の石の目の方向の大きな割れや亀頭形頭頂部の割れ、胴部の細かな打痕にピンク色がかった赤色顔料(せきしょくがんりょう)が入り込んでいます。これらの被熱(ひねつ)や赤色顔料は、縄文時代に付いたものと観察され、他の遺跡の出土例から、葬送儀礼(そうそうぎれい)にかかわるものであると考えられます。
成興野型石棒の完形例としては、県内では京野原遺跡のほかに、元屋敷遺跡(もとやしきいせき)(村上市)、伯父ヶ窪遺跡(おじがくぼいせき)(十日町市)、川船河遺跡(かわふねがわいせき)(田上町)がありますが、いずれも単頭で、両頭のものは京野原遺跡のみで貴重な出土例です。
また、安政3(1856)年にこの石棒が出土した時の様子を記す文書二通が残されていて、考古学的な発掘資料ではありませんが出土状況を知ることができ、三条市内で文字に表された最も古い遺物としても特筆されます。
以上のことから、京野原遺跡出土石棒については、添えられた2通の文書とともに歴史的な価値が高い考古資料です。
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更新日:2024年09月27日